その一人に、厄介だけど憎めない人がいました。
ある舞台を上演後、見慣れぬ人がロビーで近づいてきて、mixiで見たのだけれど、と話しかけられたのが、その人が私のファンになったきっかけでした。
どうやら若い音楽人や舞台人を発掘して願わくばプロデューサーになりたいと思っていたようです。暫く私の演出する舞台公演の客席に顔を出していましたが、そのうちに私が動くところを見たいと言うのです。当時は私はまだ演出しかしていませんでした。
そのファンのかたはジャズとシャンソンが好きで、ジャズとシャンソンのミュージシャンを育てたかったようです。私にもジャズとシャンソンを歌ってくれ、ときました。
私は歌は人前では歌わない、と決めていましたが、ファンの希望で、その人の企画で、歌い手は4人くらいいて良いし、人数も10人くらいが相手だというので、唐突に急遽、歌を習い、歌ってみました。両国にある小さな居酒屋で、私は本物の歌手俳優(ミュージカル俳優)を三人連れて行きました。その人たちはもちろん見事な曲をたくさん披露してくださり、私も合間に電子ピアノで「花はどこへ行った」と「In My Life」と「ラストダンスは私に」を歌いました。
そのファンはそれがお気に召したらしく、今度は私一人での歌番組を、ちゃんとしたジャズバーでやりたいというのです。無理です、とお断りし続けましたが、ある俳優さんが(そのかたもそのファンの方のご紹介)、歌える人はたくさんいるから、三輪さんにしかできないことをしたら?とアドバイスをくださいました。それで、じゃあ、シェイクスピアの名セリフを英語で紹介して、その場面に合わせた歌を入れる、という形にしようかな、と思いついたのです。
それを『シェイクスピア遊び語り』と名付けました。
そのファンの方が、どうしても、と食い下がらず、そしてあの俳優さんの一言が無ければ、私の『シェイクスピア遊び語り』は、まだ生まれていなかったかもしれません。
そうして第一弾は、3月15日、ジュリアス・シーザーが暗殺された日を選んで、『ジュリアス・シーザー』を題材にしたのです。
場所はそのファンが設定した両国のジャズバー。20人しか入らないところですが、今回はそのファンがちゃんとしたジャズピアニストを紹介してくれたので、歌もがんばって練習し、私の歌を決して嘲らないことがわかっている、ごくごく親しい人だけ30名ほどに声をかけました。
一人も来ないだろうとおもっていたら、声を掛けた方は皆来てくださったので、そのジャズバーは立ち見で大変なことになってしまいました。
たったそれだけの人数でしたが、ぜひ次をという声に、調子の良い私は、自らの企画で第二弾を三ヶ月後に企画しました。今度は歌も真面目に練習し、生バイオリンも入れて、120人のホールを二回公演、共に満席に。
この第二弾からは、既にそのファンの介入を私は望まず、私自身が企画を進め始めたのですが、第三弾をやるにあたり、第一弾、第二弾のピアニストが東京を離れることになり、新しいピアニストを探さなくてはいけなくなりました。
もちろん、演劇関係で、私の周りには良いピアニストがたくさんいます。けれど、元々そのファンが紹介してくださったピアニストがいなくなるわけですから、一応相談すると、別のジャズピアニストを紹介してくれました。
私も、人の輪が拡がるのは好きなので、その全く知らなかったジャズピアニストと一緒にやってみることにしました。
さて、そのファンの方は、私の集客力を見て、ご自分も関わりたいと思ったのでしょう、第三弾を企画する際、関係者のような振りをなさるものですから、ちょっと困りました。
で、そのうちに私の個人マネージャーのような振りをしていると、某所から聞き及び、これは大変困ったことになった、と思いました。
そのファンの方には申し訳ないのですが、それを機に距離を置かせていただきました。
けれど亡くなったと聞くと、やはり寂しいものです。
舞台後にロビーで私を待ち構えていて、会うと嬉しそうな顔をして、飲みに行こうと誘っていたお顔が目に浮かびます(もちろん行きませんでしたが)。
そのファンの方を通じて、それこそ、私は歌うようになったわけですし、アドバイスをくださった俳優さん、人形劇俳優さん、書道家さん、獣医さん、フルーティストの作詞家さん、ジャズピアニストさん等、実に貴重な友人知人ができましたことは、本当に感謝の言葉をいくつ並べても足りません。
それはいつもご本人に申してきましたが、最後にこの場を借りて今一度、お礼を申し上げます。
ありがとうございました。
ご紹介いただいた友人知人はこれからも大切にしていきますね。
どうぞ安らかに。
合掌。